滋賀県高島市の饗庭山法泉寺住職の吉武学です。
人生のお悩みや終活のご相談をはじめ遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
お寺が所属する滋賀県西部の湖西地区で毎年、経典や親鸞聖人をはじめとする方々の著作について学ぶ「聖典学習会」が開催されています。
今年度は教学研究所研究員の難波教行先生にお越しいただき「『歎異抄』への序論—「親鸞聖人御物語」を聞く—」と題した講義を学んでいます。
今日の講義の中で難波先生の記事を紹介されていたので、まずは全文を紹介したいと思います。
友人の結婚披露宴に出席したときのことである。新郎である友人側の主賓から、次のようなメッセージが贈られた。
「新郎には、自分の両親と一緒に暮らすことになる新婦の側に、いつも立ってほしいと思います。もしあなたが自分の両親の側につくのなら、三対一になります。そのような状態で『共に仲良くしよう』と言ったとしても、それは、自分たちの在り方や考えに同化せよ、という意味になってしまいます」。
私たちが「共に」と声高らかに言うとき、無意識のうちにマジョリティの側に身を置き、マイノリティに対し、同化を迫ることになる。私の言う「共に」が、他者にとって別の意味になる。そうしたことが往々にしてあるのだと、メッセージを聞いて強く感じた。
近年、分断や排除をはらむ様々な事件や主張をうけて、共に生きることの大切さが叫ばれている。世の中では、以前に増して「共に」「つながり」といった言葉が使われているように思う。注目を集める凄惨な事件でなくとも、日常の些細な出来事を前に、「なぜ共に在(あ)れないのか」という気持ちが、私自身に湧くこともある。
そのとき、「共に生きよう」と発信することは重要であろう。しかしその「共に」は、他者の在り方や考えを、自らの都合に合わせて変えようとするものになっているのかもしれない。
親鸞聖人の語られる「御同行」「われら」とは、人々に同一の考えを求めることを意味するのではない。それは、御念仏の教えによって、私たちが一人ひとり異なり、傷つけ合ってやまない存在であると深く知らされた言葉ではないか―。「共に」が求められる世の中だからこそ、その言葉が私の口をついて出たとき、立ち止まって考えたい。
この記事を踏まえて先生は「共生」が「矯正」や「強制」になっていないか、と問われました。
私自身が真っ先に感じたのは現在のマスク事情です。
もともと強制でもなくお願いであったものが3月13日から「任意」と強調されるようになりました。
しかし、電車に乗っても9割の人はマスクをしたままです。
まぁこのシーズンは花粉や黄砂やPM2.5など、目や鼻をガードしたい人もいるとは思います。
ただ知人にマスクについて聞いてみると「正直外したいが、他人から指摘や批判を受けないため」との返事が返ってきました。
知人はマスクをしないマイノリティにいることに不安を感じ、マジョリティの側に身を置いているのです。
何事もない日々が続いている間はともかく、マイノリティに攻撃が始まると、知人も深く意図せずその動きに加わるか、そこまで行かずともマイノリティに批判的な気持ちを持つことになると思います。
そのことを意識して、気をつけることはもちろん大事ではあると思いますが、そう思っていても、ひとたび何か事情があれば、歎異抄でいうところの「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」という振る舞いをしてしまう。
難波先生の言葉でいえば「傷つけ合ってやまない存在」になってしまうことを批判的に自覚して、他人への共感を持てる私でありたいと思います。