滋賀県高島市の饗庭山法泉寺住職の吉武学です。
人生のお悩みや終活のご相談をはじめ遺言・相続・葬儀・埋葬・終活のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
2月3日のコラムで、以前にNHKで見たネガティブ・ケイパビリティについて書いたところ、昨日の毎日新聞でも取り上げられていました。
記事は、文化人類学者の辻信一さんへのインタビューでした。
辻さんは、余剰の部分を「ムダ」と見ることへの警鐘を鳴らされています。
象徴的なものとして、「タイパ」(タイムパフォーマンス)を挙げています。
余剰を「ムダ」と考えると、その反対は「役に立つ」。
役に立つことはいいことで、役に立たない、つまりムダは悪いことと考え、それがある種の強迫観念になりつつあるのではないか、と問題提起されています。
この部分を読んだときに、浄土真宗の法話と共通する部分を感じました。
ここでの役に立つという話は、経済を主体とした話だと思います。
経済の中ではあらゆることが数値化され、健康やお金や地位なども上下、優劣などがつけられていきます。
その経済の中ではムダが嫌われますが、それは私たち自身を機械化していくことと同じだと感じますし、それは私たちが決して望んでいないことだと思います。
辻さんはまたネガティブ・ケイパビリティを「異質なものや役に立たないこととつき合う能力」、「待つ」「聴く」などの「受け身の力」と言い換えられています。
このモヤモヤをそのままで待つことができなくなることで、よく分からないことに耐えきれず、分かりやすい答えに飛びついて、分かったことにしてしまう典型が陰謀論だと言われます。
そこにSNSの特性である「エコーチェンバー」や「フィルターバブル」が加わると、「分かりやすさ」を提示する陰謀論に乗りがちになるというのです。
これも浄土真宗の教えと共通する部分を感じます。
私たちは、科学など自分が信じた理論や理屈で問題を解決していこうとします。
自分が信じたものでなければ委ねることは難しいので、陰謀論など分かりやすいものに飛びつきがちです。
一方で阿弥陀仏に全てを委ねるという教えは非常にあいまいで、分かりにくさがあります。
ただそれは、ネガティブ・ケイパビリティのように、すぐに自分の理性や論理で解決しようとせずに、あいまいなままでいったん受け入れる能力と言えるでしょう。
私たちは、自分の力で世界を変えようとするのではなく、自分のありのままの姿を受け止め、他者や世界とのつながりを大切にすることができるのでしょうか。 私たちは、余剰やムダとされるものを排除するのではなく、それらを含めた豊かな人生を楽しむことができるのでしょうか。
ただそうしたことができるのが人間であり、それを排除してしまったなら単に処理が速いコンピューターが求められるようになってしまう気がします。