滋賀県高島市の饗庭山法泉寺住職の吉武学です。
人生のお悩みや終活のご相談をはじめ遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
終活に関するセミナーの中で「尊厳死宣言」についてもお話をしています。
尊厳死と安楽死を同一視されたり、混同されるか違いますが、公益財団法人日本尊厳死協会のホームページでは、「尊厳死は、延命措置を断わって自然死を迎えることです。これに対し、安楽死は、医師など第三者が薬物などを使って患者の死期を積極的に早めることです。」と書かれています。
現在の日本では安楽死は殺人罪などに問われる犯罪です。
セミナーで、自分自身の延命治療の希望について尋ねると、多くの人があっさりと「希望しない」と答えます。
理由として挙がるのは、意識が無いまま生きたくない、お金が沢山かかりそう、家族が看病のために大きな負担を感じそう、などです。
では、意識がない家族を目の前にした時に、延命治療の希望はどう判断されますか、と聞くと、多くの人が悩みながら答えを出されます。
そして私から「どの答えを出されても正解だと確信を持てないのではないでしょうか。なぜかと言えば、意識のない本人がどう希望するか何も手がかりが無いからです」というと大きく頷かれます。
延命治療を希望しないという消極的な判断、尊厳死でさえ本人の希望がないと分からないのですから、安楽死であればなおさらです。
新聞記事で、認知症になり床ずれも酷い祖母を見た記者が、その姿を正視できず、安楽死が頭をよぎったことが書かれています。
意思能力がある元気なうちに、認知症になったら安楽死させるよう指示書を書いたら有効ではないか、という内容がありました。
これについては、私は真宗大谷派の僧侶で大谷大学の教員でもあった沙加戸弘先生の言葉が思い出されます。
ご自身が心臓を患われて胸に激痛が走った時に「死にたくない」と思われた経験を通じて、何も経験していない者が「自分はいつでも死ねる」などとは決して言えないはずだ、といわれたものです。
本当の死が目の前にやって来た時に果たして死にたい、殺してくれ、と思うのでしょうか。
認知症なら分からないのでしょうか。
認知症の人は意思能力がある人よりも何か劣っていて、意思能力がある人に従わなければならないのでしょうか。
積極的に死を希望する安楽死でなく、消極的に死を希望する尊厳死であっても、難しさは変わりません。
ただそれを意識がない本人抜きで家族だけで判断するのは、非常に心理的負担がかかりますし、その結果についても意識がなかった本人に確認できないので、いつまでも悶々とすることになります。
そのため、家族が考えるヒントとして延命治療の希望や内容について家族に伝えるものを遺しておいて欲しいと思うのです。
尊厳死宣言やリビングウィルやエンディングノートなどで書かれていたからといって、意識がない本人の本当の気持ちは分かりません。
延命治療をしてもしなくても、後に家族は悩みます。
でもせめて、意識があった昔のことではあるけれども、本人はこう思っていた、という手がかりがあった方が家族が悩んだり苦しんだりする度合いが低いと思うのです。
今、突然意識を失って倒れた時に、自分にもう家族は確認できないと思って、遺言や尊厳死宣言などを検討してみてください。