滋賀県高島市の饗庭山法泉寺住職の吉武学です。
人生のお悩みや終活のご相談をはじめ遺言・相続・葬儀・埋葬・終活のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
先日もコラムに書いた桐島聡容疑者が亡くなりました。
取り調べの中でなぜ名乗り出たのか、という問いに対して「最後は本名で迎えたい」と答えたと言います。
この言葉に浄土真宗の僧侶として、何か心に来るものがありました。
名前には、親からの願いがかけられている特殊なものである、と言われる一方で、名前はその人を識別するための記号に過ぎない、という考え方もあります。
親が良かれと思って名付けてもキラキラネームと言われ、改名しようとするケースもあります。
浄土真宗の教えで言われることの中心はお念仏を称えることです。
お念仏は「南無阿弥陀仏」、阿弥陀仏の名前を称えることになります。
これは、阿弥陀仏になろうとする法蔵菩薩が立てた48の誓い(願い)の18番目の中で
「私が仏になるとき、全ての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。」
とあるからです。
この名前を称えるということに重きが置かれ、そのことの意味について法要の際の法話などで語られています。
私は養子に出たため、二十歳を過ぎてから姓が変わっています。
変わった直後は新しい「吉武」の姓に慣れず、旧姓で呼ばれる方がむしろ嬉しかったりしました。
また、僧侶として、お念仏を称えることについて考えたり、我が子の名前について思いを馳せるときは、名前について非常に意味があるように感じます。
しかし、日々の生活の中で周りの人々の名前について、どこまで考えてられているか、というと、自信がありません。
そんな中、桐島聡容疑者が最後を本名で迎えたい、と言ったということは非常に重い問題を突きつけられている気がします。
逃亡中は「内田洋」という偽名で過ごしていたそうですし、その期間の方がむしろ長くなっています。
また桐島聡であることを名乗れば、今回のように逮捕されるなど社会的にはデメリットばかりになります。
そうであっても、名乗らずにはいられなかった、という所に、自分がいただいた「名前」というものが単なる記号ではない、重く意味のあるものだ、という気がします。
今回の件をきっかけに、行政書士として相続に携わる方お一人お一人の名前について、改めて丁寧に関わっていこうと思いましたし、僧侶としても念仏を称えるということをもう一度考えてみよう、という気になりました。