滋賀県高島市の饗庭山法泉寺住職の吉武学です。
人生のお悩みや終活のご相談をはじめ遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
「雲もなか」というお菓子があります。
私は神奈川の石材店の大橋理宏さんからご紹介いただき、一ついただいて初めて知りました。
弔いをテーマにデザインの専門学校に通う女性4人と金沢市の葬祭用品メーカー、三和物産株式会社が共同で開発し、クラウドファンディングの支援を受けてリリースされました。
亡くなった方をイメージして、特に色という形でイメージして最中の餡にしていき、最後は亡き人に思いを馳せながら食べます。
イメージは色々とあるでしょうから、虹にあるような色だけでなく茶色や黒色もあります。
クラウドファンディングのページでは、大橋さんが四十九日の納骨の際に遺骨を食べる人がいることを紹介され、その思いの部分がこの最中に共通させて食べれるのではないか、と書かれていました。
通夜葬儀といった亡くなってすぐの時にはともかく、四十九日以降で法要に集まられた方々が故人について色々と話されることが少なくなったように感じます。
健康や病気、仕事のお話が多く聞かれ、ゆっくりと時間をかけて故人の思い出を語られる時間がなくなってきています。
少し前までは、そうした時間が一番取られていたのは「お斎」の席、つまり法要後の食事の席でした。
お斎は単なる食事の場ではなく、法要の儀式の一つです。
夏の恒例行事、お盆(盂蘭盆会)では、お釈迦様のお弟子の一人である目連尊者が夏の修行を終えた修行僧に食事を布施することで、その功徳が餓鬼道に落ちた目連尊者の母親に届くと言われています。
久々にみんなが集まったから食事をしよう、ではなく、僧侶と共に読経して在家信者の皆さんにも施主が食事を振る舞う布施となっているのです。
食事という五感を刺激しながらの場だからかもしれませんが、法要の厳粛な雰囲気の中では出てこなかったお話が色々と聞かれ、一部の人しか知らなかった故人の思い出が共有されていく様子をよく見ました。
雲もなかも、色という目に飛び込む刺激を受けながら、手で作業して触覚を刺激し、最後は口に入れて味覚を刺激します。
故人の話を、頭の中や会話だけのものにするのでなく、五感を刺激したものにすることで縁ある人に深く刻み込まれていく気がしました。
新型コロナ以降、法要は行われてもお斎の席はほとんど戻ってきていません。
昔のお斎は各家でご飯、お吸い物などの椀もの、煮付けなどの鉢もの、漬物が準備され、お刺身などごく一部が仕出し屋から取られていました。
そのため、参加者が多少増減しても問題なく対応できていました。
現代は会場も料理も送迎も全てを料理屋さんに任せているため、参加者の増減を施主が嫌がります。
また昔に比べて参加者一人あたりのかかるお金も増えています。
お斎を法要の一部と考えず、食事会という認識であるうちは今後も復活していかないだろうな、と思います。
食事でなくお茶会程度にすれば、という意見を聞いたこともありますが、法要後にお茶をいただきながら参列者の方とお話をしていても、ほとんどの方はチャンスがあれば仏間を出て奥の部屋に引っ込みたい様子が見られ、周りと話をしたい、という雰囲気は見られません。
食事の席はある程度の時間、座らざるを得ませんし、食事中というのはなぜか日頃交流がない方とも会話が始まるので、やはり意味があるのだと思います。
お茶の席であっても「雲もなか」であれば、何かきっかけになるかもしれません。
新たなお斎の形の模索が必要だと感じています。