私の思いどおりにならず宝くじが当たりました

滋賀県高島市饗庭山法泉寺住職の吉武学です。
人生のお悩み終活のご相談をはじめ遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。

この一年間の間に周りの方々で病気をされた方が何人もおられました。
退院されてからお話する時に「ままならない」ことを通して、我が身の限界を感じるお話をさせていただきました。

病気に限らず、生老病死のいずれも私の思い通りにならないことです。
しかし、よくよく考えてみると、私達はこうした思い通りにならないことは「不都合なこと」ばかり想像します。
逆の都合の良いことで、例えば宝くじに当たることであっても、想像していたり確信していることではないはずで「思い通りにならないこと」であるはずです。
しかし「私の思いどおりにならず宝くじが当たりました」とは誰も言いません。

都合の良い話の時は自分の実力や能力や運の良さの結果であるかのように語ります。
実際は自分でコントロール出来ていない出来事が起きているのにです。
私達は自分に都合の良いことはもまた私の思いを超えたものであることに気がついていません。

私も何度か入院したことがありますが、病気をするとお見舞いの方からよく「病気になると健康の有り難みが分かるだろう」と言われます。
確かに入院するまで、健康でいられた事の有り難さを忘れてしまっています。

有難いとは「有ることが難しい」、つまり珍しいことだといわれます。
ただ毎日の暮らしの中で有難いことだとはなかなか感じられません。
「今日も健康で有難い」ぐらいは感じるかもしれませんが、「今日も息が吸えて酸素を取り込めて有難い」とか「今日も太陽が昇ってきて有難い」とは感じていません。
気づくためには、その逆の体験が必要で、病気になったり溺れそうになったり悪天候が続いた様な時に初めて有り難さを感じています。

都合の良いことには不感症で、都合の悪いことには敏感であることは、危険から身を守ろうとする生物の本能としては自然なことだそうですが、都合の悪いことに怯えたり怒ったりするために生きているのでもないと思います。

前述の入院の際に、お医者さんに入院までの日々の過ごし方について聞かれ答えたところ叱られました。
「あまりに忙しすぎる。休み無しで何ヶ月も働けば、今回の病気でなくても、別の病気で入院したはず」と入院中に厳しく指導されました。

「忙」という字は「心」を「亡くす」と書きますが、同じ漢字で「忘れる」とも書きます。
自分の気持ちの中では、毎日を大事なことのために忙しく「使っていた」つもりでしたが、実際は何かに私が「使われて」過ごしていたのだと思います。
「忙しい」と言いながら、本当に大事なことを「忘れて」過ごしていたのかな、と感じました。

都合の良いことも悪いことも私の思いを超えたところで働いているのに、私は私の能力によって都合が良いことだけ起きるようにしていないかと他の方の病気を見ながら改めて考えました。