次の五千円札の肖像画は誰?

滋賀県高島市饗庭山法泉寺住職の吉武学です。
人生のお悩み終活のご相談をはじめ遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。

来年度にお札の人物が変更され一万円札に渋沢栄一が採用されたという報道や関連記事をよく読みます。
そういえば五千円札や千円札はどうなったんだっけ?と全く思い出せなかったので調べてみました。
五千円札は津田梅子、千円札は北里柴三郎だそうです。

津田梅子といえば、明治初期に岩倉使節団の一人として山川捨松らと共に海外留学して、後に津田塾大学を作った人だという程度の認識です。
少し調べてみると海外留学から帰国しても官職が準備されず冷遇されていたそうです。
そのため再度米国留学し、遺伝の研究で有名なモーガンのもとで学び、その際に書かれた論文は欧米の学術雑誌に掲載され日本人女性初となっています。

そもそも明治期に女性の留学が企画されたのは第2代総理大臣となった黒田清隆によるものです。
黒田が渡米した際に、アメリカの女性の教育レベルや地位の高さに驚いて、日本にも取り入れていくために明治政府に進言したために実現したそうです。
そのため留学費用が、政府でなく黒田がやっていた北海道開拓使から支払われたとのこと。

女子留学生に限らず、開拓史のお金を使って派遣された留学生は数多くいますが、北海道での業務に関わった人は思ったより少なく、黒田が自分の領域を越えて人材育成のために尽力したことがうかがえます。
黒田には、女性も活躍する日本の姿が見えていたのでしょうが、明治政府には帰国した女性を使いこなす意図も能力も無く、もったいないことをしたのだと感じます。

私の実家の釆睪家では日本でも初期のうちに女医となった房榮さんという方がいます。

明治22年の試験合格で明治24年に登録されています。
本人が志したというよりは家の事情などがあったようですが、明治22年といえば津田梅子が日本に失望し、再度の米国留学をした時なので、女医という資格職とはいえ大変だったと思います。
一医師としては、地域の医療に貢献されたでしょうが、そもそも医師自体が少なく、女医となればなおさら少なかったこの時代にチャンスさえ与えられればもっと活躍できたのでは、と感じます。

最近でこそ、医師でも女性が活躍される様子がよく報道されるようになりましたが、それは女医の人数が増えて、珍しくなくなったからだろうと思われます。
前述のとおり津田梅子は再度の留学の際に科学で将来を嘱望されるほどの実績を上げたにもかかわらず日本に帰国して大学を創設しています。
大学での教育は、嫁ぐための行儀作法ではなく、男性と伍するための英語教育や基礎教養の習得が目指されています。
当時としては珍しかったでしょうし、時代としては求められていない姿だったかもしれません。
しかし、津田梅子が目指した姿を体現した女性が増え、社会として珍しくないほどの人数となった現在は社会で活躍する女性が次々と出ています。

よく男女格差の実態を表した「ジェンダーギャップ指数」で日本が世界的に低位であることが報道されます。
そのため様々な改善策が求められていますが、その改善策に加えて、その分野での女性の割合が一定以上であることが大事なのだと思います。

そういう意味で性別ごとに一定割合を強制的に入れなければならないクオータ制は有効なのだろう、と思います。
クオータ制を導入している間は逆差別や不合理が起きることもあると思いますが、何か目標を定めて、その目標が達成できればクオータ制を廃止すると定めておけばゴールとしては良いのではないでしょうか。

お札が切り替わる来年度、津田梅子の生涯を取り上げることで、あらためて男女が共に活躍できる社会を考えるきっかけになれば、と思います。