その葬儀、効率的じゃなくてケチになってませんか?

滋賀県高島市の饗庭山法泉寺住職の吉武学です。
人生のお悩みや終活のご相談をはじめ遺言・相続・葬儀・埋葬・終活のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。

近隣の寺院が樹木葬を始められ、いよいよ身近な所でも葬儀や埋葬の多様化が進んできました。
相続のお仕事を始めて、色々な方にヒアリングしていると「お墓はいらない」と言われる方も多くなってきています。

ある方は秋川雅史さんの「千の風になって」を引き合いに出して「風をはじめ大自然の一部となるのだから、お墓なんかいらない」と言われました。
ご本人の想いですからそれは結構なのですが、奥様やお子様は何もシンボルなしで弔いの気持ちを整えたりできますか、とお尋ねすると、横で聞いていた奥様が我が意を得たとばかりに、遺されるものの気持ちを語られていました。

お墓は単なる遺骨の安置所ではなく、そこを入口として遺された方が亡くなった方のことを確認し、自分自身を振り返られる場だと思います。
自分の想いだけでお墓はいらない、とおっしゃるのは、自分の体も自分に関係してきたことも全て自分の所有物であるという発想だからではないでしょうか。
身体と命は父母からいただいたものです。
社会との関係性の中で築き上げられてきたものは、私のものでも誰かのものでもなく社会全体で共有しているものでしょう。
私の身体は自分の所有物だから、自分の考えで処理してよいというのは私にはうなずけない考え方です。

葬儀を全く行わない直葬も増えてきているそうですが、近親者だけの家族葬が大変増えています。
以前なら、葬儀をはじめ法要など仏事は、周りの人と同じように合わせたいという気持ちが強く働いていたので、多くの会葬者がいる一般葬ばかりでした。
家族葬をする家も「会葬者への対応に気を遣わず、家族だけで見送りたいから」といった理由だったのが、新型コロナを経て「家族葬が普通なんですよね?」と言われるほどになってきました。

こちらは田舎町なので少し時代の流行が遅めにやってきましたが、それでも2010年頃には簡略化された葬儀にあうことが増えて来ました。
ちょうど島田裕巳さんの「葬式は、いらない」が出たころです。

簡略化で一番多いのは一日葬です。
通夜をせずに、葬儀式と火葬だけを一日で行うものです。
時には葬儀式の前に通夜をしてくれ、と言われることもあってやるのですが、それなら前日の夜に読経無しにして近親者だけで故人の思い出でも語り合えば十分に通夜になるのではないかと思っています。

ちなみに都市部でお葬式を受けると、葬儀式に続いて出棺前に初七日法要を勤めてほしいという依頼や、場合によっては四十九日法要を勤めてほしいという依頼もあります。
ご遺体がお骨にもならないうちから、後日の法要をやってしまおうというのは、ちょっと私としても受け入れがたいものがあります。
とりあえずやっておいた方がいいだろうけど、こちらの時間的都合があるから、とこなすように勤めようとするのは、あまりにずれています。
そうしたお話があった際は、残れる方だけで初七日をするか、お骨を持って帰られる方のご自宅で少人数でいいのでやりませんか、とご提案しています。
また、四十九日も法要を行うことが大事なのではなくて、亡くなってから一か月半という時間が経ったことを法要という儀式で強制的に自覚させられることが大事なのだと思います。

葬儀の時間的負担と経済的負担を軽減するために弔いを簡略化しているということは、身近な人を無くした悲しみよりも自分たちの時間やお金の方が大事だ、と言っていることと同じではないでしょうか。
それは効率的に過ごしているのではなくて、単にケチっているように見えます。
勘違いしていただきたくないのは、お金をかけろ、と言っているのではありません。
お金が無いなら無いなりに弔いはできます。

現代の葬儀にかかる時間やお金を効率的にしようという考えは、私の目から見れば、時間やお金という水の流れを全くコントロールすることができずに、溺れているように見えます。