出産・育児にリスペクトのあった御門徒の方

滋賀県高島市の饗庭山法泉寺住職の吉武学です。
人生のお悩みや終活のご相談をはじめ遺言・相続・葬儀・埋葬・終活のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。

朝5時に私の携帯電話が鳴りました。
番号は見知らぬ番号ですが、こんな時間帯に鳴るとなれば用件は一つです。
電話に出ると、御門徒の方のお声でお母さまが亡くなられた連絡でした。

亡くなられた方はお寺に女性役員を創設した時にお引き受けいただいたり、お寺によく通っていただいた方でした。
うちの子どもを見ては目を細めて笑顔を向けてくださり、私や妻に子育ての労をねぎらう言葉をかけてくださいました。
子育てについて、アドバイス等は何も話されず、ただただ「大変でしょう、ご苦労様」とだけ言われました。

一番印象に残っているのは、ご自身の子育てのエピソードを話された時です。
双子の子どもを育てられたのですが、ある時、百貨店に出かけたときに片方の子とはぐれて迷子になってしまったそうです。
慌てて走り回り、大声で子供の名前を呼び、目を皿のようにして探し回りますが見つかりません。
ほとほと疲れ果てて、近くの店員さんに尋ねるとインフォメーションセンターにいてると聞き向かいます。
子どもと再会し、ホッとしたところで、店員さんから「何度も館内放送で呼びかけていたのですが」と言われて、恥ずかしかった、とおっしゃっていました。
子育てのエピソードを話されるときに、自分の失敗談を出してこられるところがお人柄だと感じました。

今回、改めてこのエピソードを思い出した時に、真宗門徒としての私たちの姿を現しているな、とも感じました。
お浄土や地獄の存在を聞いて、それがどこにあるのか、どうすれば行けるのか、と自分の全能力をフル活用して探し出そうとします。
しかし、どれだけ探しても、どこにあるのか、どうすれば行けるのか分かりません。
自分では見つけられないのか、自分は行くことができないのか、と思っていると、阿弥陀様が「こちらに来い」とずっと呼びかけてくださったことに気づくのです。

今、娑婆世界を生きる中で、私たちは自分の能力を頼りとしています。
能力が足らなければ、自分の能力を高めようとしますし、周りからも勧められます。
しかしいくら努力しても限界があります。
自分の能力外のところに、本当に私が求めているものを案内してくれている存在があるのではないでしょうか。

また、亡くなられた御門徒の方が出産や育児に対して敬意を払われていたことにとても重要な面があると思います。
現代は経済合理性や生産性といったものを尺度として価値が測られます。
出産は女性の身体的な負担も大きく、育児にかかる親の時間やお金の消費も莫大なものになります。
経済合理性から考えたら出産・育児はやらないという一択しかありません。

ただ私が両親からいただいた命を次代につないでいくことはできます。
両親からいただいたとはいうものの、私はどこからやってきて、そしてどこに行くのか、正直なところ分かりません。
どこに行くか分からないのだから、死んだら無になる、と考えるのならば、今現在、生きている時間も将来は無になるのだから意味がなくなります。
全く私の理解が及ぶところではないけれども、どこからか命をいただいて、どこに命が還っていく。
それを理屈ではなく、感覚的に理解されていたからこそ、出産や育児に敬意を払われていたのではないかと思うのです。

ご本人が生きておられたときに沢山声をかけていただき、沢山教えていただいたはずなのに、亡くなったこのタイミングでしか気づくことができません。
私の能力ではないところで、私の生き方を指し示してくれるものがあると改めて感じた日でした。